tamtakoブログ

徒然なるままに~うたのおばさんブログ

クールジョワイエ50周年記念演奏会

クールジョワイエ50周年記念演奏会が 9月25日(日)にしらかわホールにて開催された。

東海メールクワイヤーから、分かれて結成された男声合唱団。高須道夫先生のご指導のもと、研鑽を積まれコンクール歴も輝かしく現在まで、一目置かれる男声合唱団である。

今回は、記念と言うこともあり、これまでの演奏の歴史をたどりながらのコンサートであった。そして、最後のステージは委嘱作品。萩京子作曲・谷川俊太郎作詞、「生まれたよ ぼく」萩京子さんのお話を交え、演奏された。

私の印象に残ったのは、戸島美喜夫先生の「もどりうた-名古屋の民謡による-」~馬方節。萩さんの「生まれたよ ぼく」も、素直に聴ける曲だと思った。女声版があるといいな、と思う。きっと出来るでしょう。第1、第2コーラスで演奏される曲。懲りすぎずなじみやすい曲かと思った。

演奏としても良いなと思ったのは、チェコ語で歌われたアンコールの曲。自然体で力まず演奏されていた。聴けば、団の愛唱歌のように、永く歌われている曲だとか。さもありなん。

不満だったことは、どのような音楽を創りたかったのか、曲によって、この曲で何を言いたかったのか、歌いたいのかなどが伝わってこなかったこと。もっとも批評は誰でも何とでも言える。言うは易し。ならばお前やって見ろ、であるが。でもあえて言わせてば、声の響きと言葉の扱い。

まず声の響き。曲によって響きのイメージを想像したのであろうか。ミサのような教会で歌われる曲と、コダーイの曲のように民謡が基調にある曲とでは、国や民族が異なる以上、創られ、求められる響きも違うはず。出来るか出来ないかではなく、イメージしたか、考えたか、ということを??に感じた。声の響きについて無造作過ぎと思った。特に第1ステージは、初めのステージと言うこともあって、緊張もされたのかもしれないが。フランス、ハンガリーフィンランド、日本。曲の世界をイメージされたのだろうか。

ことば。はっきり言ってしまえば、解らなかった。語られる言葉の面白さ、胸に迫る感情、などを語って居るであろう「言葉」へのアプローチが、わかんな~い!出だしの言葉はいつもよく分かるのだが流れの中での言葉は消える。だから結果として意味が分からないいらだちが増す。音の大きい、小さい、クレッシェンド、ディクレッシェンドなど、ダイナミクスはあるけれど、音楽はそれだけじゃないはず。

・・でも人のことは言えない。自分だって思うことが出来てるかどうかは解らない。きっと第三者から見たら「何がしたいんだ?」と言われるのだろうなぁ。

指揮者T氏は元々ピアニストで性格も真面目。演奏にはやはり指揮者の性格が出るんやなあと思ったことだった。ある曲において、「協奏曲のように弾いてほしい」とピアニストSさんに注文があった由。ピアノが引き立つように華やかに、ということだったのだろうと思うが、具体的にテクニックのコツみたいなものも含め、遠慮せず、指摘してもよかったのでは、と思う。彼女の合わせるタイプのピアノには、少し大変だったかもしれない。

一目置かれているクールジョワイエに育てられた高須先生の後を受け継ぐのは大変だっただろうし、それは今もこれからも重責は変わらないことだと思う。尊敬する先生の後釜としてやっていかなくちゃいけないんだから。プレッシャーは大きいよね。私も同じような経験があるので、余計に感じるのだけれど。いちいち比較しないで~!と叫びたかった。(笑)それでも音楽の魅力には勝てないのだ。・・いつの間にか、自分のつぶやきになってしまった。彼と話をしてみたいな。

1つ彼に注文あり。ステージ登場の時、ピアノの後ろではなく、前を歩いてきてほしいな。ピアニストだから、ピアノの前を横切るのには抵抗があるの??なんて思っちゃった。

どこもだけど、既存の団は高齢化が進んでいる。若い人は自分たちで新たな団を結成する。振り返れば自分たちもそうやって歩んできた。天下のジョワイエにも少なからずその波を感じたが、老舗の合唱団も沢山あるなか、先頭を切って、60年、70年と活動していってほしい。(9/26 筆)